みんなで遊ぼう 先生も遊ぼう

私は、担任をしていた時、週に2回、「みんなで遊ぼう」という時間を設定していました。
「みんな」とは、クラスの「みんな」です。週に2回、中休みにクラス全員で遊ぶというものでした。

ですが、子ども達に「クラス全員、みんなで楽しく遊ぼうよ」と呼びかけるだけでは、そんなクラスの習慣・きまりが定着するわけではないのです。
そのためには、「先生」が必要です。
先生がそこに一緒にいて、一緒に遊ぶからこそ、みんな一緒に遊べるのです。

小学校の子どもたちにとって、「先生と遊ぶ」という言葉は、特に魅力的な響きをもっています。
小学校の担任の先生は、教室では、ある意味で「スター」です。やんちゃな子も、おとなしい子も、優等生の子も、みんな、その「スター」ともっと仲良くしたいと思っているのです。
その「スター」、普段は、教室の前に立って自分たちに算数や国語を教えています。その「スター」が、教える立場を離れ、自分たちと同列になって、一緒に遊んでくれるのです。
それは、先生ともっと仲良くなるチャンスであり、おそらく、授業とは違う楽しさを味わえる時間が過ごせるのではないか、と子ども達は思うのです。
こんな担任の先生の「スター」の力を使わない手はありません。
担任の先生の「スター」の力があるからこそ、みんなが一緒に遊ぼうとする求心力が得られるのです。

しかし、その「スター」の求心力も、最初のうちだけです。
遊びが始まってからは、教師の役割が重要となります。
それが、「先生がいるからこそ、みんな一緒に遊べる」理由の二つ目なのです。
それは、先生が「ルールを示し、守らせる」役割を果たすからです。
例えば、休み時間の子どもの遊びの定番であるドッジボール。
そのルールをめぐって、小さなトラブルが起こります。
例えば、ゲームの始まりのジャンプボール。ゲームの始まりの儀式的なものにすぎないと大人は思うのでしょうが、子どもにとっては、とても名誉な、やってみたいことらしいのです。
「オレにやらせろ。」
「私もやりたい。」
ほっておけば、力の強いやんちゃな子が他の子を押しのけてジャンプボールをすることになります。
こんなとき、ルールを教師が示すのです。
「やりたい人でジャンケン。」
ポンと一言言えばよいです。
子ども達は、その「公平性」に納得するし、何よりも、早くドッジボールがやりたいから、すぐこんな声が起こります。
「早く、ジャンケンしようぜ。」
すぐ、トラブルはおさまって、ドッジボールが始まります。
こんなのはまだかわいい方です。
やんちゃな子がのさばっているクラスでは、「ボールをとった、落とした」で必ずもめます。
ボールを取り落としたのに、
「先に地面に当たったボールだった」「セーフだ」
と言い張るのです。
こんなとき、教師がさばいてあげます。
「○○ちゃん、おしいな。残念ながら、アウト。本当におしいなあ。」
明るく言うのです。

先生が、このようなことを続けていると、クラスに共通の認識が生まれます。
ルールを守っているとみんなが楽しい、ということです。
当たっていないのに当たったと言われることもないし、当てたのに当たっていないと言い張られて不満に思うこともなくなるのです。
ルール通りなら、誰しも不満をもちません。それは、やんちゃな子もそうです。
やんちゃな子も、ルールによって守られているのです。当たっていなければ、当たっていないと先生は判定します。
「なんで、僕だけ」「なんで、あいつだけ」がなくなっていくのです。

ルールを守っているとみんなが楽しい、それを教える大きなチャンスは、先生が子どもと一緒に遊んでいるときなのです。

若い先生には、もっと子どもと遊んでほしいなあ。