想定外に立ち向かう 「シン ゴジラ」

おはようございます、渡辺喜男です。

先日、テレビの地上波で「シン ゴジラ」を放映していました。ご覧になった方もたくさんいると思いますので、昨年のロードショー時に書いた感想を掲載します。ただし、「ネタバレ」でもありますので、ご注意ください。

「シン ゴジラ」を見てきました。
私達が「想定外」の事態に向き合う時、どんな心の持ち方をすればよいのか、この映画は様々な示唆を与えてくれます。

「シン ゴジラ」とは何ものなのでしょうか。

この映画のゴジラは、これまでのゴジラ映画で示されてきたゴジラの誕生ストーリーを、意図的に無視して、設定されています。
原爆・水爆による放射能汚染の恐怖の代名詞のゴジラでも、地球生命を守る愛すべきゴジラでもありません。
ただただ、まちを破壊する「凶暴」なものとして描かれています。そして、それは、私達にとって「想定外」なものです。
もちろん、この「想定外」な「凶暴」なものは、「東日本大震災」+「原発事故」を類推させます。
「シン ゴジラ」=想定外」な「凶暴」なもの=新たな「東日本大震災」+「原発事故」
と考えてもよいと思います。

私達は、東日本大震災という想定外の事態に遭遇しました。揺れではなく津波による甚大な被害、そして、それによって引き起こされた原発の事故は、目を覆うような惨事でした。具体的な被害のなかった私でさえ、今も、校庭に子ども達を集めたときに見上げた空の沈痛な暗さ、そして、停電で信号さえも失った真っ暗な道路を、恐怖の感情とともに思い出します。 あのような出来事が、たった5年前の2011年に発生したとは信じられません。
あの「凶暴な」「想定外」な事態に、日本国は向かい合いました。当時の日本国政府の責任者は、内閣総理大臣菅直人氏でした。
振り返って、あの対処、対応でよかったのか。よくなかったとすれば、どこを直せばよかったのか。
そんな検証を促してくれる映画なのです。

この「シン ゴジラ」では、政府関係者を中心に描かれています。一般人は、守るべき者、避難させるべき者という位置づけです。それは、日本国を襲うものとしてゴジラが位置づけられており、その日本国の当事者が政府関係者(責任者は内閣総理大臣)だからです。 物語は、ゴジラの登場と進化、破壊が、それぞれ「想定外」の連続として描かれています。
海底火山の噴火× →巨大生物
川をはって遡上する変態前ゴジラ× →立位歩行可能な完全ゴジラ
機関銃、ミサイルによるゴジラ攻撃× →生物にもかかわらず破壊されず、近づく敵を攻撃するゴジラ
・・・
「こんな想定外は、映画の中のことだ」と思われるかもしれませんが、私達は、とかく、人は自分に都合のよいように考えるものです。 雨は降らないだろう、車は通行しないだろう、子どもの発言はこんな感じだろう、1時間でできるだろう・・・
みんな都合よく、想定して対応しているのです。
ところが、それが「想定外」になったとき、どうするかです。
映画では、政府関係者は、法令と前例と稟議、そして、外交関係に縛られながらも、ゴジラに立ち向かいます。

その立ち向かい方は、
?縦割りの活動よりも横のつながりの活動
?アメリカおよび戦勝国体制よりも日本国・日本国民優先
?人まかせの国防より自衛隊による攻撃
です。
この立ち向かい方は、東日本大震災の際に、できなかったことでありつつ、しかし、自衛隊の活躍などに見られるようにその「萌芽」が見られたものもあるのだと考えています。

映画では、連続して起こる巨大な「想定外」の事態に、政府関係者たちは、立場を超えて英知を集めて、圧倒的な行動力をもって立ち向かい、微差の勝利を積み重ねていきます。 その姿は、「想定外」の事態に向き合う時、どんな心の持ち方をすればよいのか、様々な示唆を与えています。
2016/08/16