渡辺先生が教室にいるように感じていた

昨日、教室の雰囲気は、そこを統治している担任の先生の雰囲気だと思うと書きました。
ふと、数年前、私の学級を参観した横須賀の佐々木誠先生が、私の学級の雰囲気について書いていたので、紹介させてもらいます。
「教室には、まだ渡辺先生の姿はない。しかし、私は感覚的ではあるが、渡辺先生が教室にいるように感じていた。」
こういう感じ方もあるのです。

数年前、渡辺学級を参観した。そして、幸せなことに、15分間の授業をさせていただいた(参観する代わりに授業をするのです)。 渡辺学級の子ども達を、生で感じることができたのである。素敵な子ども達である。

休み時間が終わろうとする頃、私は、教室に入った。子ども達は、三々五々集まってきて、教室でいつも通り残り数分の休み時間を
過ごしていた。
あちこち歩き回る子、机の上に座って、友達とおしゃべりしている子、一人で本を読んでいる子、過ごし方は様々であった。「自然だなあ、自由だなあ」と感じた。

教室には、まだ渡辺先生の姿はない。しかし、私は感覚的ではあるが、渡辺先生が教室にいるように感じていた。
子ども達の姿を通して、渡辺先生の存在を感じたのである。
「担任の求心力」そう感じたのである。

今年、久しぶりに渡辺学級を参観することができた。
4年生。数年前までは、毎年5・6年生を担任していたので、私にとって、初めての渡辺学級4年生であった。

教室に入る。
相変わらず、子ども達はガチャガチャしている。決して、お行儀はよくない(渡辺先生、ごめんなさい)。でも、乱れていない。
人なつこさも、以前の渡辺学級と変わらない。
子ども達から、どんどん声がかかるのである。

授業が始まる。
さっきまでガチャガチャしていた教室が、子ども達が、いつの間にか授業モードに変わっている。
渡辺先生の発問・指示がテンポよく出て、子ども達もその流れにあっという間に巻き込まれていく。

全体への指示が出る。
ほとんどの子は、その指示と同時に学習を進めていく。
しかし、中には特別な配慮が必要な子もいる。
渡辺先生は、全体が動き出したのと同時に、配慮を要する子への個別指導に入る。
個別の指導と言っても、その子にべったりついての指導ではない。そっとそばに寄ったかと思うと、ほんの一言二言伝え、その場を離れる。この繰り返しなのだ。

時には、個別の指導をしながら、全体への次の指示を出すこともあった。
このように書くと、「全体」と「個別」の2つの層だけに分かれているように感じるかもしれないが、実際には、もっといくつもの層に対応しながら、授業を進めているのである。

全体に指示を出し、個別に対応し、その間に、少し遅れている子や、逆に先に進んでいる子への対応をしているのである。
よく「子どもを見取る」という言葉を聞く。「教室全体をよく見なさい」という。
それは、「一人残らず全員」と言うことだ。一部の子を対象にした言葉ではない。

渡辺学級を参観すると、いつも「全員」という言葉を意識させられる。それは、渡辺先生が、常に「全員」を意識しているからなのである。「一人残らず」を、本気で考えているからなのである。 私が数年前の参観で感じた「担任の求心力」、それは、教師の「全員」「一人残らず」という意識が、学級全体に広まっているからこそ、感じられることなのである。