昭和の自由? 令和の束縛?

昨年のユーキャン流行語大賞は「ふてほど」でした。「不適切にもほどがある」です。
私は、この番組をさわりしか見ていないので、ウェブの記事や投稿から漏れてくるような言葉から、この番組がねらったものは、「昭和への郷愁」を描いたものだと受け取りました。 令和の現在とのギャップに、多くの人が共感をもったのだと思います。
Npoのメンバーと話していると、学校の実践・活動において、以前あった大らかさが失われて、堅苦しさや窮屈さが浸透してきていると言う声を強く、そして、何度も出てきます。す。
確かに、私が退職した8年前においても、そのような気分・雰囲気は多分にありました。私にとって、本当に窮屈な雰囲気でした。(私は、どうも、自由・裁量の余地が、多分に必要なタイプなのだと思います。)
一方、昭和が本当に自由だったかというと、絶対にそんなことはないと思います。 昭和には、不自由さが非常にありました。そして、この令和の時代になって、自由になったことがたくさんあります。
でも、この窮屈な感じは何なんでしょうか。 締め付けられるような窮屈さは、どこから来るのでしょうか。
このことは、ずっと心に引っかかっていたことでありました。
皆さんは、この窮屈さを、どう感じているのでしょうか。 このメルマガは、様々な年齢の読者がいると思いますが、若い方よりも年齢を重ねた人が、私同様、この窮屈さを感じていると思います。
1月3日の産経新聞に、「コンプライアンスの世界線」という記事が掲載されました。 em-tr271.com/L90494/b581/126701
それは「事前規制と事後監視」というキーワードを使った記事でした。 それを読み、私はなるほどと思ったのです。そんなキーワードを通すと、私のもつ窮屈さが説明され、ある部分、ストンと腹落ちしたのです。
しばらく、この記事を元に考え、現在の窮屈さの正体を探ってみたいと思います。