今はその時ではない

今日の話題も、「すっぱい葡萄問題」です。

クライアントさんが「取れなかった葡萄はすっぱいはずだ」と「合理化」したら、コーチはどう対応したらよいでしょうか。

これは、教室で子供たちの話を聞く教師の対応に通じることでもあると思うので、ご自身だったらどうするか、少し考えてみてください。

私は、その時、クライアントさんが話すことをじっくり聞いて、その話題が過ぎるを待っていました。
クライアントさんは、ほどなく、違う前向きな話題になり、そのことについて、私も一緒に考えたのでした。

いかがでしょうか。

私の微妙な?判断は、このことについて考えるのは時期尚早だと思ったわけです。
クライアントさんの心は、試験に落ちたという「傷」に向き合うほどには、回復していない・癒えていないと思ったのです。

それとともに、クライアントさんは、しばらく時が経過して心が癒えたら、きっと自分の心の「傷」に向き合って考えていくと、私は信頼し、確信していました。

ただ、私は「今はその時ではない」と思ったのです。… 続きを読む

「合理化」で自分を守ることもある

今日の話題は、「すっぱい葡萄問題」の続きです。

手に入れられなかった葡萄を「すっぱい葡萄」と言うことは、「負け惜しみ」であり、自分の能力不足に向き合っていない「合理化」だと、批判ばかりされることなのでしょうか。

私のコーチングのあるクライアントさんも、このような「すっぱい葡萄」と言っていました。

(ここから、コーチングの実際ではなく「脚色」して記述していきます。)
そのクライアントさんは、NPOで活動していて、そこで会計担当でもある方でした。
たまたまNPOの会計担当者向けの無料セミナーが開催されていたので、自分に役立つかもしれないと受けてみました。
すると、それまで会計担当として「?」だったところが、少しわかってきたのです。
それがおもしろくて、会計の勉強を続けて、ついには「簿記」の資格試験を受けることにしたのです。

ところが、残念。
その「簿記」の試験に不合格だったのでした。… 続きを読む

「すっぱい葡萄問題」

今日の話題は、「すっぱい葡萄問題」です。
この問題は、私が行なっているコーチングにおいて、時折クライアントさんがめぐりあう問題なのです。

すでに「すっぱい葡萄問題」がどのようなことか知っている方も多いと思いますが、念のために、紹介させてください。

Wikipedia には「すっぱい葡萄」として、このようなあらすじが記述されています。
https://em-tr271.com/L90494/b300/118521

「お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。
食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。
何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と、負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。」

英語には、この童話を元に生まれた熟語として「sour … 続きを読む