「すっぱい葡萄問題」

今日の話題は、「すっぱい葡萄問題」です。
この問題は、私が行なっているコーチングにおいて、時折クライアントさんがめぐりあう問題なのです。

すでに「すっぱい葡萄問題」がどのようなことか知っている方も多いと思いますが、念のために、紹介させてください。

Wikipedia には「すっぱい葡萄」として、このようなあらすじが記述されています。
https://em-tr271.com/L90494/b300/118521

「お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。
食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。
何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と、負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。」

英語には、この童話を元に生まれた熟語として「sour grapes」があります。それは、「負け惜しみ」を意味するのです。

この「負け惜しみ」が主題とされるように、この「すっぱい葡萄」の童話は、あまりよい意味で使われません。
そう、心理学で説明される「合理化」です。
(社会心理学では、認知的不協和とも言います)

狐は、ほしいのに手に入らない物事に対して、怒りや悔しさから、「そんなものは価値がない」「自分には必要がない」などと、自分の気持ちを納得させたのです。

そして、この「合理化」においては、狐は「自分の能力不足と向き合うことから逃げている」と、批判的に解釈されるのです。

ですが、手に入れられなかった葡萄を、「すっぱい葡萄」と言うことは批判ばかりされることなのでしょうか。

それは、狐にとって必要なことではなかったか。
そんなことを、考えていきたいです。