「合理化」で自分を守ることもある

今日の話題は、「すっぱい葡萄問題」の続きです。

手に入れられなかった葡萄を「すっぱい葡萄」と言うことは、「負け惜しみ」であり、自分の能力不足に向き合っていない「合理化」だと、批判ばかりされることなのでしょうか。

私のコーチングのあるクライアントさんも、このような「すっぱい葡萄」と言っていました。

(ここから、コーチングの実際ではなく「脚色」して記述していきます。)
そのクライアントさんは、NPOで活動していて、そこで会計担当でもある方でした。
たまたまNPOの会計担当者向けの無料セミナーが開催されていたので、自分に役立つかもしれないと受けてみました。
すると、それまで会計担当として「?」だったところが、少しわかってきたのです。
それがおもしろくて、会計の勉強を続けて、ついには「簿記」の資格試験を受けることにしたのです。

ところが、残念。
その「簿記」の試験に不合格だったのでした。

そのクライアントさんは、ひどく落ち込んだと言っていました。
しかし、コーチングの際には、「この簿記の試験で合格しても、国家資格ではないから、実質はない」「試験勉強していたことで、会計担当として十分役立つことが学べた」「もともと、NPOの趣旨に賛同して、孤立している人の話を傾聴することがしたくて、参加した。会計がやりたいことだったわけではない。あくまで、会計はおまけ。」などと言っていたのです。

これって、手に入れられなかった葡萄のことを「すっぱい葡萄」と言っているわけです。

さて、このクライアントさんの「合理化」をどう考えたらよいのでしょうか。
私は、クライアントさんの言いっぷりと表情から、この「合理化」は、今のクライアントさんに必要なことだと考えました。

このクライアントさんは、「合理化」することで、自分を守っているわけです。
守るべきこと、それは自分の実績、自負心なのだと思います。

今は、自分を守ることに意味がある。
このクライアントさんは、無意識に(意識的かもしれません)、そう考えたのです。

クライアントさんは、また、試験に落ちたことを考えると思います。
それは、ある時間を経て、「合理化」で自分を守らなくてもだいじょうぶだと思えたときです。

その時に、もう一度試験を受けようと思うかもしれないし、いや試験は必要ないと思うかもしれません。

「合理化」を、自分を見つめていないと批判ばかりしないで、「合理化」で自分を守ることもある、そんな視点ももっていたいです。